なぜ政治にモノ申すのか

1.歯科医師を目指した動機

私、高橋進吾は昭和43年2月25日、岩手県水沢市に共働き家庭の長男として生まれました。いわゆる「かぎっ子」で、成長期には空腹から両親の帰りを待てずにスナック菓子に走り、小学校低学年にはすでに口腔内はう蝕にまみれておりました。

歯科医院の待合室に子供たちが並ぶ中、一人当たりの診察時間は限られています。歯科治療が大嫌いな高橋少年は治療に抵抗し、防護ネットで縛られて涙ながらの診療の中で、「こんなに痛くて苦しい治療をしなくてもいい、子供を泣かせない歯医者になりたい」と考えるようになり、いつのまにか歯科医師は忌み嫌う存在から将来の目標へと変わっていきました。

他の子供たちがスポーツ選手や医者、科学者と色々な将来の夢を書く中で、私は親が歯科医業に関係している訳でもないのに、小学校の中ではほとんど希望者のいなかった「歯科医師」になりたい、と言い続ける珍しい存在でした。

長じて地元岩手の中学・高校を卒業した私は、初志を貫徹して東北大学歯学部に入学、平成4年3月に卒業し歯科医師免許を取得しました。歯学部在学中は運動部に所属する一方、歯科医療のあり方に興味を抱いて「歯科医療研究会」にも所属し、様々なフィールドワークを通じて初歩的な疫学調査や分析手法に触れる機会を得ました。

2.医療行政への関心

そもそも、幼少の体験から小児を対象とした予防的治療に関心を抱いていた私は、卒業して免許を取得した後は地元に帰って開業し、予防診療を主体として子供たちのう蝕予防に携わる地域歯科医療に従事したいと考えておりました。

5年生で臨床実習が始まり、そこで私は医療保険制度が治療偏重で予防の点数がほとんどないことに気が付きました。予防の歯医者になりたいのに歯を削らなければ開業できないじゃないか。逡巡する中で、私はその原因が診療報酬体系の中にあると考え、将来的には激減するであろうう蝕と増大する歯周疾患管理に対応する報酬のあり方、そして広く国民一般に予防施策を推進する医療制度について学びを深めたいと、大阪大学医学部大学院の受験を決意しました。

大学院在学中は、歯科医療制度のあり方のみならず、医学部大学院としての性格上、生活習慣病や感染症を始めとする全身疾患の疫学研究、イギリス・ロンドン大学に派遣されての日英の歯科保健医療施策や歯科保健意識についての比較研究、大阪府・兵庫県・神戸市などの自治体から委託された健康関連データの調査分析と予防施策の提言等に携わり、現在に至る問題意識について開眼させられました。Evidence Based Public Health を学んだことは、その後の私の活動の礎となりました。

また、平成7年の阪神・淡路大震災の折には、発災2日後に神戸市に派遣され、その後数ヶ月に及ぶ調査に基づき、国のマニュアルの基となる「大震災下における公衆衛生活動についての研究」をまとめることができました。

一連の研究活動を通じ、私は歯科疾患は単体として存在するのではなく、生活習慣病や各種感染症と相互に密接な関連をもって人の一生を規定する要因の一つとなることを確信し、臨床医として診療場面で貢献する道ではなく、患者である住民と診療側とを繋ぐ行政において、医科・歯科を広く包含する保健医療福祉体系の基盤整備を担いたいと考えるようになりました。

5年間にわたる神戸市での公務員時代、公衆衛生担当の専門官として貴重な仕事を経験させていただきました。歯科のみならず各種生活習慣病予防関連事業や介護保険事業等に従事し、多くの住民を対象とした仕事にやりがいを感じる一方、私は、保健医療行政における技官としての役割とその限界、および議会を通じた各種施策の具体化の現実に触れ、今後の自身のキャリアについて深く考えることとなりました。

大学院在学中の各種疫学研究の経験から、口腔内疾患のみならず全身の疾病や健康状態が各人の社会・経済指標や国の保険医療行政施策のあり方と密接に関連していることに気づき、医療制度における歯科の位置づけ、命を支える大切な口腔の役割について深く考えるようになりました。

大学時代

3.政治の世界に飛び込む

行政内部からの改革では限界がある。住民の声を代弁し施策を作るのは議会なのだろうか。2年あまりの逡巡の末、「ひとの命を守りたい」と大学院で公衆衛生を選択した動機を今一度思い起こし、まったく成算はありませんでしたが、満5年で神戸市を退職し、平成15年の神戸市会議員選挙に出馬致しました。

選挙はズブの素人、そして地縁血縁もなくあるのは根性とやる気のみ。ふた開けてみると最低当選者が3900票余りの得票であるのに対し、私の得票は2334票と望外のご支援をいただきました。落選後、これから直ちに政治の世界で働くきっかけを失い、家族と共に生活の苦しみを味わいましたが、将来の医療政策を主体とした政治活動に向けて勉強時間を頂けたものと前向きに考えることにしました。

その後、地元である神戸市東灘区の市会議員から「先の平成15年選挙の直後に県会議員が急死し、17年に再選挙が行われることとなり立候補を考慮してくれないか」との依頼をいただきました。

将来、医療政策の充実を旗印に政治の世界で働きたいとは考えていたものの、前回の落選を踏まえ、医学をいま一度学び直し再検討をと考えていたこともあり、始めは断りました。その後、数度にわたる関係者からの説得を受け、最終的に出馬の申し出を受諾いたしました。

兵庫県議会議員時代

4.保健・医療・福祉行政の前途に思いを馳せて

平成19年に兵庫県議会議員として初当選。その後23年、27年と3期連続当選させていただきました。27年の3期目当選は26,678票もの得票をいただき、86人の県議会議員の中で最多得票となりました。
この間、兵庫県議会では県民の「命を守る」予防施策の充実に取り組み、平成23年には当局との難しい調整を乗り越え、全国的にも珍しい「身体と心と口の健康」を包含した、三位一体の「兵庫県健康づくり条例」の成立にこぎつけました!
県民個人にとどまらず、県内の会社や団体・組織が予防に取り組む枠組みを宣言する内容です。
「健康」であることは当たり前のように思いがちですが、日頃の様々な場所での努力の積み重ねで得られるものです。この条例が出来て、550万県民の皆さんの健康維持に、少しばかりでも力を尽くせたかと、議員としてのやりがいを感じたことを昨日のように思い出します。

大学・大学院での研究、神戸市役所での行政経験、苦しい浪人時代、そして兵庫県議会議員としての現在までの実践の中で、私は地域の実態ー住民の生活に根差し、住民の声とともに政策を立案する術を学んでまいりました。

医療人として国民に資する保健医療福祉システムを構築したいとの思いは変わらず、次世代を見つめ、可能性を追い求める日々を続けています。

私はこれまでの経験と自身の持てる力を振り絞って国政の荒波に立ち向かい、医療専門職種の一員として、真に国民に貢献する社会保障の未来像を打ち立てたいと望むものであります。ご支援を賜りますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。

兵庫県議会議員時代

5.思うところあり!県会議員の実績をふまえ、県政にモノ申します。

高橋しんごは自民党の県会議員として3期を務め、この間、自民党兵庫県連青年局長として、県議会副議長として、県民のために奉仕をしてきました。

いま、神戸市、そしてその中心である中央区は、100年に一度の大きな街づくりの節目、大事な転機を迎えています。 私は、これまで懸命に取り組んできた県政課題に今一度向き合い、神戸市と兵庫県を「住みたいわが街ナンバーワン」に押し上げたいと、心を熱くしています。 「兵庫五国の発展は神戸から」ー市民・県民の皆さんとともに歩む兵庫の未来を創りあげたいと思います!

摩耶山掬星台より
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